ポンコツ女の大行進

いにしえの若手俳優ヲタクの昔話

映画好きではなく映画館好きなのかもしれない

本当の映画好きに笑われてしまう程鼻くそみたいな本数しか観れてないけど、わたしは映画が好きだ。
ゴリゴリに偏りのある邦画しか観ないから包括出来てるカテゴリは狭い。
DVDなら新作で高くても400円で観れるのに、映画館に行くのもったいなくない?って言う考えの人も世の中には沢山いるけど、多分わたしは映画が好きなんじゃなくて映画館が好きなんだろうなと思う。
前々から今週末はこれを観るぞ!って計画をするより、金曜の夜にそこそこの時間に仕事が終わって、今帰れば一旦家に帰ってご飯食べてお風呂入ってから映画館に行けるかもってそこで初めて近所の映画館のスケジュールを眺める。
映画から帰って来たらもう歯磨きして寝るだけで済むような状態で家を出て、窓口でコーヒーを買って(ポップコーンは臭いしうるさいので買わない)シネコンの中に吸い込まれていく。
ここまで一人。チケットをもぎられて、「◯番シアターです」って、前の騒がしそうな大学生たちも同じスクリーンを案内されてた時はテンションがちょっと下がる。始まるまでの間、一人なので特にする事もなくぼーっと始まり待つ。

予告に半額を払ってると言ってもいいくらい予告はわたしの中で大切で、今から一本映画を観ようとしてるのに、予告を観ながら次は何を観ようか考えるってめちゃくちゃ贅沢な時間。
映画を観に来て次の映画を決めて、またその映画を観に来るって、あたりまえ体操だけど、無限にそれが繰り返せるって素晴らしい。

予告の途中に普通に入ってくる奴に殺意が沸く。
仕事とか電車とかそういう都合ならともかく、遅れて入って来た奴が喋りながらポップコーン食ってると、もうお前自分ちのリビングでやってろよって思う。
まぁそれは極論だけど、遅れて入ってくる人用シートとか作って欲しい。
舞台にも言える事だけど、もう観賞用の目のスイッチが入っているのに現実世界の人間が視界にうろつくのって本当に不快だ。
本編が始まってもどうしても一定数おしゃべりクソ野郎は存在する。
映画は黙って観るものって言う概念が彼らの中には存在してないんだろうな。
この世の映画は全部応援上映だと思ってるんだろうな。
わたしは映画=喋ってはいけないと言う細胞教育があまりにも構築されすぎていて夏に行った帝一の応援上映ではほぼ一言も言葉を発する事が出来ず、同行したSに「薄々気づいてたけど、はなちゃん絶対応援上映向いてないよね…」と言われた。

まぁクソ映画だとそのクソ野郎たちはエンドロールまで終始喋り続けるんだけど、素敵な作品だった場合、上映が始まった時にあんなに喋ってた奴らが、エンドロールで自分と同じ顔して泣いてる。
入り口では全くスタンスが違かった人間たちが2時間後に同じ感情になってる。
舞台でも勿論同じ事は言えるけど、街中で、気軽にそれが出来る映画って存在は本当に素敵だなぁと思う。
舞台もそうなればいいけど、なかなか今日はなんとなく舞台でも観に行こうかなーってなれる環境って日本にはまだないもんね。

わたしはもしかしたら、映画が好きなんじゃなくて映画館が好きなのかもしれない。
今の会社は映画の宣伝の仕事もやったりしてるし、たまにエンドロールで社名を見かけることもあったりするから、いつかわたしも大好きな映画館のエンドロールに自分の名前が載る仕事がしたいなぁと思う。